ゴドーを待ちながら

5/11/2009
 ブロードウエイのWaiting for Godot(ゴドーを待ちながら)を観てきました。エストラゴンにネイサン・レイン、ウラジミールにビル・アーウイン、パッツォがジョン・グッドマン、ラッキーはジョン・グルーバー。ニューヨークでは80年代末以来20年ぶりだそうですが、ソルドアウトの人気でした。
 実は私はゴドーの舞台を観るのは初めてです。あらすじは知っていますが(あらすじっていってもなあ、ですが)、戯曲を通して読んだこともない。が、何かにつけて引用されることが多いので、いつか見たいと思っていました。
 で、先に脚本読んでおけばよかったとちょっと後悔。わけのわからない話で、わけのわからない台詞が満載なので英語を追うのに神経が行ってしまいます。2時間以上を飽きずに観られたわけですから、それなりにおもしろくできていたのだと思いますが、全体の印象としてはネイサン・レインの一人舞台。
 それにしても、ちょっと意外だったのはこんなにも反キリスト教的な芝居だったのか(ベケット本人の意志は別として)ということです。ベケット本人はGodotはGodを暗示するつもりはなかったと(ベケットはアイルランド人ですが原作はフランス語)不満だったらしいのですが、英語圏の人間が見れば、どうみてもGod。しかもGodotをGodにしてラッキーがキリスト教徒で男の子がエンジェルと考えれば、きれいに図式ができすぎてしまうので危険です。しかも、20年ぶりの上演が今。クリスチャン大国であったアメリカで急速に宗教離れが進んでいる中ですから、よけいにわかりやすすぎます。たぶん、これはベケットが一番観てほしくなかった見方なんだろうなあ、と思いつつ考えはついそこに行ってしまいます。
 ですから、とても暗い。じんわりと暗い。アメリカには進化論を本気で否定するキリスト教徒も驚くほどたくさんいますが、反面、いったん宗教を離れると完全な無神論者になりがちです。無神論者というのは、たとえ神の有無の論争でキリスト教信者に勝てても代替の救いがあるわけじゃないので、どう転んでも底なしの絶望感しかありません。「人生には2つの生き方しかない。人生の意味を自分で考えるのを放棄して宗教にすがるか、人生に意味なんかないってことを認めて生きるかだ」(誰が言ったかは忘れた)という言葉を思い出しました。
 キリスト教がそもそも否定されるほどに確立されていない日本での舞台はどういう印象のものだったのか見てみたいと思いました。もうちょっとほのぼのした雰囲気に仕上がってるんじゃないか、というのが予想なんですが。
 
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投稿者: motokokuroda

アメリカ生活も四半世紀を超えました。お料理から政治まで、興味のおもむくままに。

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